正しさについて
私はいつも、私が正しい、あるいは間違いっていない、という、言い訳をしてしまう。
私が思うに、私という者は、私を「完全に」否定することができない存在なのではないか。
例えば自死を選ぶとき。どのような贖罪があろうとも、諦めがあろうとも、それは否定ではなく肯定として、或いは言い訳として、その行為が選ばれるのではないか。
私は真に私を否定することができない。私とはそういう仕組みで成り立っているのではないか。
私はその行為は正しい、或いは間違いではないのではないか、と考えてしまう。
正しさは私の中にしかなくて、それはあなたにとってもおそらく同じで、あなたの正しさと私の正しさが一致することもあるかもしれないが、おそらく多くの正しさは相反している、またはすれ違う。
だとしたら、正しさは私たちがわかり合う上で、弊害にしかならないのではないか。
正しさの向こうを考えること、想像すること。