すべてのことを許せたなら

ー37歳、独身、会社員。いろいろと考えるー

子どもと貧困

朝日新聞デジタルの「子どもと貧困」というテーマの特集記事をいくつか読んでいる。こうした現実があるということは、ただただ遣る瀬ない。

私の生まれた家庭も、この記事に紹介されている家庭ほどではないが、周りと比較するとどちらかといえば貧しかった。そのことでいじめを受けたこともあるし、二十歳を過ぎた時、親の借金を返済するために消費者金融からお金を借りさせられたこともあった。

「生まれてくる場所を選べない」というのは、私は敢えて「不幸」と呼ぶが、自分自身の意思ではどうしようもない不幸のひとつだ。こればかりは、「どうして私は生まれたのか」という問いよりも先行して「私の身体が在る」のと同じで、いくら考えても答えがないし、その不幸には何の意味も理由もない。

それなのに私たちは、日々の成長の過程の中で、家庭や親は「かけがえのないもの」であるということを、どこかで刷り込まれる。それはひとつの真実かもしれないが、「かけがえのないもの」なんてほんとうはどこにもない。乱暴な言い方をすれば、それらは全て「幻想」である。

そんな幻想に苦しめられるのであれば、それに耐え続ける必要はどこにもない。決別したって構わないし、そのことに後ろめたさを感じることもない。

どうか、何の意味も理由もない、理不尽な不幸に苦しむ子どもたちが、救われることを祈るばかりだ。

成熟した社会の表出としてのLGBT

LGBTという言葉が世間で使われはじめて随分と月日が経ち、だいぶ耳にも馴染んできた。

こうして言葉が広まっていくことは、人々が関心を持つ/持たないに係わらず、また肯定されることだけではなく肯定されないことも含めて、社会に受容されていくことに繋がっていくだろう。

そのようにして私たちの社会は多様性を増していく。多様性が増すということは、様々な価値観が開かれていくということだが、同時に「私とあなたは違う」というごく当たり前の前提が、より顕在化していくということでもある。

そうした時に問われるのは、自分とは違う他者に接する際の、態度や姿勢ではないだろうか。

他者を「自分とは違う」という理由だけで忌避することは簡単だ。しかしそうした態度や姿勢が行き過ぎると、それは忽ちに差別へと繋がっていってしまう。差別は暴力であり、暴力は弱さの裏返しである。

自分自身の弱さとどう向き合うか。つまるところ、自分とは違う他者を受容するということは、自分自身の弱さを受容するということではないだろうか。

誰もが弱さを抱えている。その弱さと辛抱強く向き合い、相互に受容していくこと。そうした人々が営む社会は、きっと成熟へと結実していくはずだ。

声の大きな者を疑え

ドナルド・トランプがどのような人物なのか、ニュースでの報道やネット上に公開されている情報以上のことを、私は知らない。

また、彼の唱える政策についても私は詳しく知らないから、その是非に関しても何かを語れるわけではないが、時に暴言とも評されるその物言いに、アメリカ国内だけではなく、この日本やその他各国に於いても物議を醸しているところを見ると、よほど大きな影響力があるのだなということはわかる。

今起こっているこの現象だけに目を向けて想うのは、人は大きな声の前では動揺せざるを得ないのだな、ということだ。いや「動揺」という表現だけでは言葉が足りないかもしれない。何かしら「感情を揺さぶられる」と書いた方が的確だろうか。

共感も反発も含めて、私たちは何かしらの感情を揺さぶられ、端的に冷静でいられなくなる。まるで威嚇されているかのように、大きな声に過敏に反応してしまうのは、人間の動物的本能なのだろう。

ドナルド・トランプに限らず、政治家は概ねして声が大きい。リーダーと呼ばれる者たちは押し並べて声が大きい。彼らはその性質を熟知していて、戦略的に「メソッド」として大きな声を発するのだ。そのことを私たちは改めて認識しておいた方がいいだろう。

この場合、その大きな声や表情、発話のスピード、扇動的な身振り手振りを前に、語られている内容そのものはさして重要ではない。だからこそ、語られている言葉の内容に耳を傾ける必要があるし、冷静さを取り戻して判断することが重要なのではないか。

理由も意味も、物語もない

島根県の県道で直径1メートルの落石が走行中の自動車に直撃し、助手席に乗っていた女性が亡くなられた事故のニュースを見て、亡くなられた女性のご家族やご友人の方々の気持ちを想うと、言葉を失うばかりだ。

もし自分の身近な人が同じような死を迎えたとしたら、私はそれをどう受け入れたらいいのだろう。

ほんの数秒だけ、走行する時間がずれていたら。違う道を走行していたならば。

きっと誰もが考えるであろうその可能性は、起きてしまった事実を前に、あまりにも無力だ。それでも私たちはその可能性を考えられずにはいられない。

「もしもあの時こうしていれば」

私たちに毎々訪れる現実には、いくつもの層になった、ここにはない現実が重ねられている。

そうして迎えられる現実が、少なからず自分の意思の配下にあったのであれば、それは甘んじて受け入れるしかないだろう。

しかし今回の事故のような現実には、自分の意思どころか、私たちが承服し得る理由も意味もない。

理由も意味も、物語もない。

こうした「偶発的」としか言いようのない死を、私たちはどう受け入れたらいいのだろう。「人は何のために生きるのか」という命題そのものが崩れてしまっている。まさか「運命」という言葉で安々と済ませられるものではあるまい。

残された者は、その場に寄る辺なく立ち尽くし、ただただ時間をやり過ごすしかないのだろうか。例えそうだったとしても、では死んだ者の無念を救済する術はどこにもないのか。それはあまりにも無情で悲しい。

亡くなられた女性のご冥福と、ご家族やご友人の方々の心の安寧をお祈りします。

折り鶴と祈り

被災地へ届けられる折り鶴の要不要論についてのニュースやブログ記事などを見る度に、何とも形容し難い、もやもやと気持ちになるのは、どうしたものだろうか。

それぞれの人たちがそれぞれの立場や感性でそれぞれの意見を言い、その是非を問う。

救援物資の仕分けの邪魔になる。
役に立たないし、処分に困る。
送った人の気持ちを考えろ。
善意を踏みにじるのか。

そもそも単純に論点が噛み合っていないというのはあるだろう。一方には役に立つか立たないかという合理的な視点での意見があり、他方には気持ちの視点での意見がある。

それらがそれぞれに一方的で交わっていないから、ちぐはぐとした印象があるのかもしれない。だからと言って「折り鶴って合理的に何の役にも立たないから送られても困るけど、送った人の気持ちを無下にはできないよね」と言ったところで、それは何も語っていないのと等しい。

この議論には正解がないというか、間違いがないことが厄介なのだろうか。

考えても考えてもきりがない。意見が飛び交えば飛び交うほど、ただただ「人と人は決定的に分かり合えないのだ」という、極めて当然の事実だけが浮き彫りになっていく。

折り鶴に仮託された祈りはどこへ向かえばいいのか。

新聞のホチキス留めくらい

はてなブックマークを読み漁っていたら、とある喫茶店に置いてある新聞のホチキス留めに対する苦言を書いたブログ記事に辿り着いた。

読後感があまりよくなかったので該当記事へのリンクは貼らないが、内容を要約するとこんな感じの記事だ。

・新聞のホチキスの留め方が雑で、上部と中央部しかホチキスが留められておらず、新聞を開こうとすると、下部がくしゃくしゃになってまともに読めなかった。

・店員を呼んで懇切丁寧に笑顔で新聞下部のホチキス留めを頼むと、迷惑そうな顔をされた。

・店員が戻ってきて、新聞下部にホチキス留めをしてもらえたものの、ホチキスが深く留められていて、新聞を二つ折りにした時に隅の方まで文字を追えず、さらに新聞を捲っていくほど中央部分が膨らみ、読み難い状態になった。

このことに対して、ブログの著者は店を名指しし、「頭の悪さが露呈する」「想像力の欠如」という言葉を使って店員の対応の悪さを批判し、(たまたま空いている時間だっただけかもしれないのに)「ゴールデンウィーク後半初日にも関わらず客が少ないのにも頷ける」とまで書いている。

それを読んだ私の率直な感想は、たった新聞のホチキス留めのことだけで、よくもここまで店のことを悪く書けるなということだ。わざわざその新聞を撮影してアップロードしているのには悪意すら感じる。

おそらくだが、新聞のホチキス留めを頼んだ時の店員の対応があまり思わしくなくて、このブログの著者は不満を抱いたのだろう。そうした気持ちならばよくわかるし、ブログの著者もたまたま虫の居所が悪かっただけなのかもしれないが、それにしても「頭が悪い」とまでは書き過ぎではないか。ほんのすこしの接客時間の中で、そこまで店員のことを悪く書く方がよっぽど「想像力が欠如」している。

という私も、このブログの著者のことは全く存じ上げないので、これ以上のことを書くのは控えるが、他のブログ記事を読むと、どうやらまだお若い人のようだった。ならばそうした不満への許容値がまだ低いのも頷けるし、いい意味で生真面目な人なのだろう。

しかしこの喫茶店のファンである私は、最後に店の擁護をしておきたい。この店はチェーン店で、東海地方を中心に各地で展開されているが、店員の接客態度はどこも概ねして良い。中には態度の悪い店員もいるかもしれないが、それはただのアンラッキーだ。そしてこの店は朝の時間帯は比較的混んでいる。それが空いていたのだとすれば、それはラッキーじゃないか。

正体不明の住民

岐阜県池田町の住民課の女性が、停職期間中に旅行の写真をFacebookに投稿したことで懲戒免職になったというニュースを見て、その行為の善し悪しや処分の是非はさておいて、私が驚いたのは、その女性のFacebookの投稿をチェックし、それを町に報告する住民がいたということだ。

なんと律儀で正義感に溢れた住民だろうか。というのはむろん冗談だが、あくまで推測だけれども、その住民は女性と近しい人物だったのではないか。そして「停職期間中に不謹慎だ」と言いながら、その背景には極めて個人的な私情が挟まれていたのではないか。

というのも、まず自分の町の役場職員の誰かが停職期間中であるという情報を、一般の住民が仕入れることは容易ではないし、池田町のサイトを確認した限りではそうした情報は見当たらない。となると、そうした情報を知り得るのは役場の関係者など、それなりに近しい人物であると考えられないだろうか。そもそも一般の住民というか、その女性と全く関係のない住民にとっては、そうした情報に関心がないだろう。

またもう一つ腑に落ちないのは、ニュースの内容を見る限り、女性は副町長に一度注意を受けたにも関わらず、再度Facebookに写真やコメントを投稿したとあり、それで今回の処分に至ったようだが、何故最初の注意を受けた段階でFacebookの公開設定を変更しなかったのだろうかという点だ。

公開設定の変更方法を知らなかったのだろうか。知らずに投稿していたのだろうか。だとしたらそれはあまりにも軽率な行為だと言わざるを得ないが、おそらく公開設定は変更されていたのではないかと思う。普通ならば公開設定を限定すると思うのだ。そして、友人以外の者には閲覧できないはずの投稿が、何らかの手段で正体不明の住民によって監視され、町に密告されたのではないか。

繰り返すが、ここに書いたことはあくまで推測でしかない。

ともあれ、停職期間中にFacebookへ旅行の写真を投稿したことが「不謹慎」で、仮にそれが「町の信頼を損ねた」として、懲戒免職という処分はほんとうに妥当なのだろうか。諭旨免職では折り合いがつかなかったのだろうか。

いろいろと腑に落ちないニュースである。

ブログの開設にあたって

どうもはじめまして。ネコスミスと申します。

35歳、独身です。1月頃に適応障害という病を患って3ヶ月ほど休職し、4月に仕事を辞めて晴れて無職になりました。まさか35歳になって無職になろうとは、例えば10年前には想像していませんでしたし、10年前どころか今年の年明けにすら考えていませんでしたが、こうなってしまっては仕方がありません。

「35歳」と「独身」というキーワードが組み合わさるだけでも、一般的な感覚からすると「ちょっと大丈夫かな」という気がしなくもないですが、そこに「無職」というキーワードまで追加されましたから、いよいよです。

大丈夫かな、自分。

まあ大丈夫じゃなくても、人生は何とかやっていかねばなりませんから、今は気長に考えていくことにしています。

というわけで、病状もだいぶ快復して随分と暇な時間を持て余すようになってきたので、ブログでも書いてみようかと思った次第です。

いろいろと世知辛いことが多い時世なので、何かやんわりとした記事を書いていければと思います。

どうぞよしなに。